パイナップルにうってつけの日 [ためになった情報]
ある夏の日の夕方、僕は、母と父と中華料理を食べにいった。丸い円卓にそれぞれが座り、大きい縦長のメニューを開いて、なにを食べるか、じっくりとそのメニューをみる。しかし注文はいつもすぐに決まる。それはだいたい食べるものが決まっているからだ。ホイコーローや海老チリとか、野菜スープとか。そしてみんなが大好きな「酢豚」。一通りお店のひとに注文を伝えると、ぼくは目の前にあるグラスの水をいっきに飲み干した。そして外の景色を眺める。まだ日が暮れてない夏の夕焼け。すると、一品目をもってお店の人がぼくらのテーブルに近づいてくる。最初にきた品が、酢豚だった。大きいお皿にもりつけられた酢豚。とてもおいしそうだ。ぼくは母に自分の分を別の小皿にとりわけてもらうよう頼んだ。そしてすかさずぼくは言った。「パイナップルはいれないでね」酢豚にかならず入っているパイナップル。これがぼくはとても苦手なのだ。「なんで酢豚にパイナップルがはいってるかほんとにわからない」と冗談っぽくいってみた。すると父がぼくのほうをみて、言った。「パイナップルと酢豚はあうよ、パイナップルがあるからおいしいんだよ」。父は昔からパイナップルを支持しているのだ。だからこの反論は想定内だし、いつものことだし、またいわれたという感じだ。酢豚ではないが、おなじように、ハンバーグにも、ときたまパイナップルがのっかっていたりする。これもぼくは苦手だが、父は大好物だ。こう考えると、その人間の味覚というものは、どういう経緯を経て、その人の味覚になるのだろうか。ましてや同じ家族で、同じようなものをたべてきたはずなのに、なぜ、こうも味覚におおきな差異が生じるのか?とても不思議だ。ぼくはこれを「パイナップル問題」と名付けたい。こういった現象に名前をつけるのは、村上春樹さんの真似だったりする。村上春樹さんの傑作命名「小確幸」。これはどういう意味かというと、小さいけれど、確かな幸せ、という意味で、なにか嫌なことを我慢したあとの、ささやかなご褒美にとても大きな喜びを感じるというニュアンスでいっていたとおもう(「うずまき猫のみつけかた」という氏のエッセイにかかれています。)。まぁ〜とにかくパイナップル問題は、とても日常にたくさん潜んでいる訳であります。文化、政治、経済、さまざまなところで、この問題は生じてきます。なぜなら、それはすべてにおいて、人間がいるからであります。たかが人間、されど人間、であります。つまるところ、人間がいるところにパイナップル問題あり。といったところでしょうか?
関係ないけど、パイナップル繋がりで。。
関係ないけど、パイナップル繋がりで。。
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